女
【1】9月30日 月曜日
私は生物学的に「男」という生物が好きではない。
理由は簡単だ。魅力的に感じられないから。
「男」という生き物が兼ね備えている根本の価値観や欲求みたいなものに無性に腹が立つ。
ここで私の嫌いな男たちを紹介しよう。
ケース①
プライドの塊で、ごく自然かのように女を見下している男
何を根拠に女を見下しているんですかね。男の何が優秀だと思い込んでるんですかね。馬鹿じゃないの?
ケース②
絶対に自分の非を認めない男
何をどう見たって男が悪いんだから、早く認めてくださいよ。時間の無駄だな。
ケース③
馬鹿なくせに、自分はバカじゃないと思っている男
どうせ大した考えなんて浮かんできやしないんだから、はいはい、さっさと諦めましょう。紛れもなく馬鹿なんだから。
ケース④
馬鹿な女が好きな男
自分より馬鹿な女がいいですよね。その足りない頭でコントロールできる、低いレベルの女が好きなんですよね。はーい。
ケース⑤
結局下心しかない男
まぁ、性欲ですよね。存じております。そこに愛とかないですよね。
気持ち悪い。
はっきりと言おう。
バカでどうしようもなくてただただイラつくのだ。
生物として嫌いなのだ。
負けたくない。「男」なんかに負けたくない。
身体も、心も、私は常に上位でいたい。
上位でいて当然なのだから。
【2】10月9日 水曜日
私は処女だ。
男性とまともに付き合った経験もない。自分が好意を感じる相手が男なのか女なのか。最近ではもうあまりよく分からない。
人は好きだ。誰かを愛おしく思う気持ちも分かる。
愛情を注ぐと言う感覚もある。
20歳になった時、地元の自治体から子宮がん検診の無料クーポンが届いた。
どんな検査をするのかも分からないまま、母に「行け」と言われて病院の予約をとった。
予約をとった後にどんな検査をするのか、内容を聞いた。
私は内心ワクワクした。私が経験したことのないその感覚はどんなものだろう。
擬似でもあったとしても、それに近しい感覚を味わえることに、私はワクワクしたんだ。
処置当日、「性交渉の経験はありますか?」と看護師さんに聞かれた。
当然、「ないです」と答えた。
「あっ、そうなの?だったら、痛いだけであんまり意味ないかも...感染のリスクが、ね、」と言われた。
私はものすごく愛想良く、「あ、そうですよね、そりゃそうですよね。
分かりました。今回はやめておきます。」と答えた。
その病院からの帰り道、私は人に説明できない感情になった、
説明したくないのではなくて、自分でもこの感情をどう説明すればいいかが分からなかった。
ただ少しだけ、「多くの女が知っているはずの感覚を味わう機会を逃した」という悔しさを感じたのは自分でも自覚できた。
でもそれは感情シェアの2割程度で、本当に感じているのはこんな感情ではない。
なんだろう。
”あなたは女ではありません”
そう言われたような気がした。
私は自分が女であると言う自覚がある。
女を特徴付けるような厄介な感情だって持っていないわけじゃない。
当然のように自分も女であると思っていた。
看護師さんに検査の必要がないと言われた時、
「人は女に生まれるのではない、女になるのだ」
という、とある小説の言葉が頭によぎった。
なんだろう、
歳を重ねていけばいくほど、自分が世界で定義されている女という存在から、遅れをとっているような気がする。女になれてないような気がする。
彼氏という存在は欲しいと思わない。本気で思ったことがない。
周りの友達に彼氏彼女ができても、いいなとは思わないし、焦りもない。
でもいつからか、”処女である”ということへの漠然とした不満感がある。
「女の人は初体験を終えると綺麗になる」
暗黙の了解で誰もが感じていることで、私も実際感じたことがある。
女は性行為を経験して初めて、女になる。女になれる。
そんな風に思った。
「人は女に生まれる、女になるのだ」
また、頭によぎった。
そのドラマはあるドラマ作家が何人もの男と、体を重ね、最後には女をテーマに作品を作り上げるという話だった。
私はそのセリフを聞いた時、分かるようで分からなかったと同時に、
なんでか妙に納得した。
妙に納得してしまったから、悔しかったんだ。
どうやら私は女ではないらしい。そう思わされた。
どうしたら、”女”になれるのだろう
私は”女”になりたいんだろうか
【3】10/12 金曜日
人はなぜ身体的快楽を求めるのだろうか。
服を脱いで、身体を交わらせる。
そこに一体、どんな快楽があるのだろうか。
ある人はとても甘美だと言い、
ある人はツールだと言い、
ある人は自己満足だと言った。
ある人は痛いと言い、
ある人は気持ち悪いと言い、
ある人は愛情だと言った。
どれも嘘のように、本当のように感じられる。
愛されたくて求めるのだろうか
愛したくて求めているのだろうか
誰かを手に入れたいという衝動が、身体にまで及んでいるのだろうか
身体を重ねれば、望む「何か」は手に入るのだろうか。
それは何なんだろうか。
その人自身か、愛か、快楽か。
そもそもそんなものは無くて、行為そのものに意味なんてないのか。
私には分からない。
自分の身体を使ってまで「する」その行為は何の意味があるんだろうか。
その先には何があるんだろうか。
【4】11月1日 金曜日
私は常に愛されていたい。
絶対的に、深く、永久に。
その愛情を自分に注いでくれそうな人を何となくの直感で判断して生きてきた。
そのセンサーに「男」という生物は全く引っかからないのだ。
何一つ条件を満たしてくれない。
足りないのだ。
一般的な男女がしている恋愛なんて、私には全然足りないのだ。
その程度の愛情では満足できない。
記念日を祝うだとか、おしゃれな場所に行くだとか、毎日ラインをするだとか。
そんな浅い愛情は私には必要ないのだ。
でも分かっている。そんな「男」はいない。だから期待もしない。
だから気になって仕方ないのだ。
女の人が綺麗になるほどの「性行為」とは、「身体的快楽」とは何なのか。
それは絶対的に、深く愛されたことの証明なのではないだろうか、と思えてならないのだ。
愛情の形は様々で、絶対的に深く愛してもらえれば、それは「恋愛」というカテゴリーである必要はないと思う。それは今も変わらない。
だけど本当は味わってみたいのだ。
「女」というフィールドの上で絶対的に、深く、愛されてみたい。
1人の人間としてではなく「女」という生物として愛されてみたい。
その「快楽」に私は溺れたい。
私はもっともっと愛されたい。
【5】11月16日 土曜日
私は今、名前も知らない男の前で服を脱いでいる。